カルメラHatchで語らなかった結成秘話 真相ver. 前編

いやいや、無事カルメラ、なんばHatchワンマンライブ終了しました!
LINE@にも書いたけど、メンバー、スタッフ、そしてなにより本当に応援してくださるみんなのおかげです!
他のメンバーと同じような思いなので、詳しくはアっちゃんなりのブログをみてください!笑

ところで、結成にいたるまでのストーリーをコント仕立てでお届けしましたが、なんとなく真相を書いてみたいと思う。

12年前。僕は自分で作ったバンド「ガミハナーズ」を脱退しました。
曲も9割以上は作ってたし、アレンジも全パート分ほとんど僕がしてたので、一体何が不満だったのだ。と言いますと、当時周りにいたどのバンドと比べても自分たちよりもカッコいいバンドなんていないと思ってたはずなのに、いろんなことが重なった末、気づいたら周りを見渡したら「自分たちよりもカッコよくないバンド」だと思ってたバンド達に、「自分たちよりもカッコよい部分」をたくさん発見できるようになり、脱退を決めました。
まぁわかりやすく言うと、自分の作る曲には絶対的自身はあったんですが、もっと音楽的に成長したいなと思ったのです。
あと、いろいろ何から何までを仕切るということに疲れきってたのもありました。

昔から知ってて、もっぱら界隈では上手いと評判で当時Loco-PassionというバンドをやってたHIDEYAくんが新たにFUNKバンドを始めたと聞いてたので、僕は、ガミハナーズ脱退をメンバーに伝えたその日に、電話をし「ヒデヤくん、新しくバンド始めたんやろ?それに入れて!」と言いました。
そのバンドには当時僕たちがいた大阪の若いSKAシーンで、もっと音楽的成長がしたいと思ってたメンバーがたくさん集まっていました。「FxF(エフエフ)」というバンドでした。
今は存在しないバンドですが、タイムボカン、SQUEEZEのメンバー、将番頭、HIDEYAくんが在籍してたLoco-Passionの他のメンバー。現在GERUGUGUでトロンボーンを吹いてるシンさんなど。
たまのスタジオと数ヶ月に一回のライブという活動でしたが、2年ほどの活動の中で、現在JABBERLOOP&Fox Capture Planのメルテンや、現カルメラのあっちゃんが入ってきました。
結果的に俺が仕切り症なのか、俺が挙手してやったのか覚えてないですが、気づけばそのバンドも、俺が曲をメインで作り、リーダー的に立ち回るようになっていました。笑
掛け持ちのバンドがあるメンバーばかりだったので、とてもゆるやかな活動をしてたら、気づいたらメンバーの掛け持ちしてたもう1個の方のバンドが軌道に乗り出し、スタジオリハに集まる人数が徐々に減ってゆき気づいたら、俺とあっちゃんの二人だけが暇という状態になってたのです。

二人しかいないのに、わざわざスタジオに入るのもお金もったいないので、俺の部屋でビールを飲みながら、あーでもないこーでもない。と言いながら、俺がFxFの曲を作曲するのを、あっちゃんが見る。という謎の日々。
ある程度曲が出来たら「あっちゃん、これにギター入れて。」と弾いてもらう。という作業をひたすら続けながら、メンバーがのスケジュールが落ち着くのを待ってました。


今日は特別に当時の作ってたものを聞かせちゃいます!
こんなの普通はスタジオに入るためのメモ書きなので、人に聞かせるために作ってるのではないので、クオリティのひどさはご了承を!本邦初公開!!

■地中海に浮かぶ女

あっちゃんがこのコード進行だけを持ってきて、それをまず弾いてもらい、試行錯誤してメロディを考えて、これでいこうかとなった最終系。のちにさらにAメロの進行を俺が変えてしまい、あっちゃんの原型がBメロのコード進行だけになってしまう。苦笑 ごめん!

■CUTICLE

ゴールデンバラエティにて、まさかの10年の時を超え復活した曲。笑
10年前のオレのメモ書きはコレ。おおすじ変わってない。

■Swallow

いまもほぼ毎回やってるSwallowの最初の形。これはもはや原型さえとどめていない。Bメロの最初の入りのメロディに名残りがあるかな?くらい。笑

■流星

当時は「流星隼人」というタイトルでした。これはFxFの時に作った曲だったかな?カルメラの1stにも5thにも収録してます。まぁデモの段階ではSKAっぽい裏打ちだったけど、大きくは変わっていない。


みたいな曲たちを作りながら、メンバーとスタジオに入れるタイミングを待つ日々。
しかし他メンバーは落ち着くどころか、バンドがメジャーデビューしたり、どんどん忙しくなるばかり。
俺たち二人は気付きました。

「こりゃ、もはや誰も帰ってこないね」

ひとまず、メンバー新たに自分たちで探そう。
FxFはヒデヤくんが作ったバンドやし、屋号は変えよう。
松原のラーメン屋「むさし」の店内で、バンド名を「戦国デコトラ行進曲」か「カルメラ」か悩んだあげく「カルメラ」に決定し、前者は「仁義デコトラ行進曲」と名前を少し変え、曲名にしました。
2006年5月13日に、俺とアッちゃん、現・赤犬のカモさんだけが正式メンバーで、他全員をサポートメンバーで初ライブを行いました。
そこから、なかなかメンバーが見つからず、またもやダラダラ活動。
たまのライブをしながら、トロンボーンがやめ、ベースがやめ。。といったところに、当時のキーボーディストが学校とバイトの後輩でトロンボーンの子がいる!と連れてきたのが、たなちだった。少し前に、楽団的バンドでカルメラとも対バンしたこともあるという事と、妙に優しい顔の男だったので、男は優しさだぜ!と思ってる僕は、一緒にやろうと誘った。
ベーシストも決まり、「よし。ここからはちゃんとコンスタントにライブしよう」と決めライブ活動を本格開始したのが2007年4月。

少しした頃に、当時の大学生だったキーボーディストの女性が「就職してピアノ教師になるから」と脱退し、当時のパーカッションのメンバーがセッションで一緒になった韓国人の若い子が良かったから誘ってみる!と連れてきたのがパクちゃんだ。
その日はパクちゃん以外にも、もう一人別の人が合わせに来てたんやけど、その人が帰って、二番目に来たのがパクちゃんでした。
パクちゃんと軽く演奏を一緒にしたのち、面接的に話を聞いてたら、曲を作ったりするとの事だった。そこで、高校だか中学の時に作った曲だと当時はまだタイトルもついてなかったけど「犬、逃げた。」「ホテルジャズ」「あの夏のエーゲ」の三曲をピアノの独奏で聞かせてくれた。とても良い曲だ!と俺とアッちゃんは「その曲のCDが売ってるなら今すぐ買いに行きたいくらいやわ。」と大興奮。「どこで売ってるん?」などと冗談を言ったりした。
もはや検討する時間など不要で「一緒にやっていこうよ!」と即座に誘ったらOKしてくれた。

しばらく活動していると、僕は練習でもライブでも楽器を持ったら、顔中が腫れるようになった。瞼がただれ、唇は溶けてボロボロに。病院へ行くと、「金属アレルギーですね」と宣告された。「トランペット吹くんですが、大丈夫ですよね?」と聞くと、ちょっとくらいなら大丈夫だけど、あんまり長時間だと症状は出ますよ。と宣言された。
「ちょっと吹くくらい」というとてもボヤっとした課題を与えらたが、ひとまずラッパをもう一人入れて、メインは任せて俺は「ちょっと吹くくらい」というスタイルに変更するしかないな。とトランペットを探しはじめた。
当時のベーシストが、現INDIGO JAM UNITのBJさんに相談したところ、「とびきり若いけど、間違いない腕のやつがいるから」と紹介してくれスタジオに来たのがコバヤンだった。
初めてきたスタジオで「地中海に浮かぶ女」を合わせたのだが、ソロをふったら、めちゃくちゃカッコよいソロを吹き散らし、パクちゃんやアッちゃんがソロを演奏してるときも、小さな音でこっそりとソロを吹き続けてた。
めちゃくちゃ若いの上、そもそも僕の知ってる範囲にはあんなに上手なラッパ吹きは、いなかったので、当時のコバヤンはファッションなどには全く興味がなく、とても変テコな服装だったけど、あのプレイには変えられない!と思い即座に誘った。とても変テコな服装だったけど。

ここまで数時間かかったので、疲れたのでひとまず続きは次回。笑
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